「大きな声で挨拶を」
         大統寺住職 渡邊宗徹


 皆さんは毎日声を出して挨拶をしていますか。「おはようございます」「いただきます」「ごちそうさま」「行って来ます」「ただいま」「おやすみなさい」で一日が終わります。それが当たり前と思っていますが、皆さんはどうですか。

 ところが、挨拶をしない人が増えています。私が勤めていた時、部下が遅刻して黙って自席に座わり仕事を始めました。あなたは家で「おはようございます」等と言わないのと聞くと、彼は「言わない」と答えました。黙って他所の家に入ったら泥棒になっちゃうよと言ったのですが。彼の子供はもっと言わなくなるのではないか。それで良いのかと思うのです。

 確かに挨拶をしなくても問題は生じないし、直接の利益もないでしょう。でも、「おはようございます」と無心で挨拶が交わせられた時には、心の中が晴れ渡って気持ち良く、その日一日が元気溌剌になります。師匠からは「無心になり、互いに合掌し合えるのが、一番だ。」と言われて来ました。お釈迦様が説かれた八つの苦の一つに「会いたくない人と会わなければならない苦しみ」というのがあります。誰とでも挨拶を交わせないのは、自我が妨げているのですね。

 人や社会と係わらない人が増えていると言われて久しいですが、本当にそうでしょうか。いまや携帯電話は子供からお年寄りまで普及しています。街角でカップルや友人同士が集っている姿を多く見かけますが、一方で携帯電話でメールや電話をかけています。係わりを持ちたくないと思う一方で、一生懸命係わりを持とうとしています。友達や恋人と会っていても、満たされない何かを外に向けている姿を見ると物は豊かになっても、心は置き去りにされていると感じます。

 朝の読経後に道路掃除をしていると登校する学生達に出会います。大きな声で「おはよう」と一人一人に声をかけます。「暑いね、元気ないよ」等と言葉を続けます。当初は怪訝そうな様子でしたが、今では「おはようございます」と大きな声で反応する子供達が増えました。遠くから手を振る子供達もおります。挨拶を交わした後に、私の心には清清しい気持ちが宿り、彼らにも自分が認められている眼差しを感じるでしょう。それが社会に潤いを与える力になると信じます。

 企業も終身雇用が薄れ無駄を省き社員を減らし効率重視となって、余裕の無い無味乾燥の社会になって来ました。最近の建物は水を使わないで出来る様です。だからこそ「潤」が求められています。それはお互いに見つめあうことから始まると思います。

 人という字は二人が寄り添い会っている姿です。所詮人間は一人では生きられません。だから、自分の喜びは他の人の喜びであり、人の悲しみは自分の悲しみであると思い、支え合って行く事が大切です。その第一歩として、互いを認め合い縁を結ぶためには、大声で互いに挨拶することだと思います。

 本堂での毎朝のお勤めで、お釈迦様、歴代住職及び檀信徒のご先祖様のご供養を続けています。それはこれらの方々と毎朝挨拶している事です。己が今日あるのはこれらの方々の御蔭であり、これらの方々の清浄なお姿に自分を写して自分の行いを自省することでもあります。

 多忙の「忙」は心を失なうということです。一日一度は心を調え静かに座り、己の姿を見つめる自分とのご挨拶をして下さい。そして一日一日を精一杯生きる力を養っていただきたいと思います。


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