平和を思う
大統寺住職 渡邊宗徹
今年も暑い八月が来て戦後にまつわる様々な記事が新聞に掲載されましたが、年々その量は減り風化が進んでいます。広島・長崎に原爆が落とされ罪のない多くの人々の犠牲により、やっとのことで平和を得てから五十九年がたち戦争の惨禍の記憶は皆から薄れて来ましたが、戦争の傷跡はまだまだ沢山残っています。
原爆が投下された時間に犠牲者の方々のご冥福を祈り寺の大鐘を打つ間、平和が遠ざかりつつあるのではないかと危惧せずにはいられませんでした。
お盆の棚経に市内の檀家さんの家々を訪ねましたが、軍服を着たセピア色の遺影を仏壇の周りに飾っておられる家は決して少なくありません。寺には戦死され遺骨も帰らず空の骨壷を納めたお墓もあります。残された家族の労苦が想像される家もあります。五十九年経っても戦争の傷跡はなかなか消えないのです。理由の如何を問わず、戦争がどれ程に罪悪であるかと思わずにはいられません。
小学生の時にテレビのドラマで見たフランキー堺主演「私は貝になりたい」はそれから四十年以上も経った今でも忘れられません。徴兵された善良な床屋の主人が上官の命令で捕虜を殺害したことを敗戦後の戦争犯罪の裁判で問われ死刑を宣告され絞首刑に処せられるのですが、その時に「次に生まれる時には深い海の底に住む貝なりたい」と叫ぶ姿は戦争の罪と本質を如実に表わしているように感じました。
お釈迦様は全ての生きとし生けるものが救われると説き、小さな虫たちの命を守るために音の出る杖を突いて歩いた程です。殺され殺し合えば、憎しみが憎しみを呼び際限ない苦しみが広がって行きます。武器を持って戦うことよりも、人々の心の中に平和の砦を築くことが真の平和を確立することになります。けれども、その方が遥かに困難です。でも、その努力を続けることが最も必要なのではないかと思います。
生きるためには他の生き物たちのいのちをいただかなければならない罪深い私たちですが、その生き物たちのいのちを無駄にしない生き方を私たちがしなければいけないと思います。
それには皆が心底から自分自身を愛し大切にして欲しいのです。もう少し美しかったら身長があったらと思う時もあるけれど今のままの自分が一番素晴らしく輝いているのだと自信をもって徹底的に自分を好きになり、自分を愛することになりきって欲しいのです。次に、自分を大切にする気持ちは他人も同じだということに思いを馳せて欲しい。他人を愛し大切にして欲しい。人間は所詮一人では生きていけないのだから、自分を大切に思う私と自分を大切に思う他人は結局同じであり、私も他人も一緒であり同じである(自他一如)と理解する心を、世界中に広めて行くことが、互いにいたわりあい明るく希望と夢を育むことの出来る平和な世界を創る礎であると確信しています。私たち仏教者は身を持って実践し伝えて行く必要があると思います。
今問題となっている殉教のテロを宗教が容認するように言われてますが、それを容認した宗教の開祖はいないはずです。宗教者であるならば自分の宗教を信じない人々をも救うという請願を持っていて当然です。貧困から抜け出せない閉塞感が狂気に走らせているとも思います。
真実の姿を研ぎ澄まされた五感でしっかりと把握し、深い愛情と情熱を持って生き抜く必要があると思うのです。
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