昨日読んだお経と今日読むお経

         大統寺住職 渡邊宗徹

 
仏教経典は八万四千の法門とも言われている程ですが、現在約三千程が読まれていると言われています。勿論、我々僧侶が通常読むお経の種類はそれよりもずっと少ないのですが、それでも一人前に読める様になるのは容易ではありません。臨済宗の坊さんになるためには修行道場で最低でも一年間は修行しなければなりません。

 私の修行道場の師匠であった春日文勝ろうたいし老大師(かすみぶんしょうろうたいし・京都の臨済宗大本山妙心寺元管長)はお経に非常にうるさい方でした。修行中は毎朝三時か四時に起こされて朝のお勤めをするのですが、時々指名されて一人で読まされました。この時にお経を上手に読めないと他の作業をせずに、お経が読める様になるまで読む事を命じられました。老大師が読めると言うのは経典を見ずにそら空で読めることです。暗誦しなくても、両手で経本を戴き読むことで良いのですが、それ位覚えられずにどうするのだとの思いが強かったからでしょう。読める様になると、今度は新参の修行者に金剛経(こんごうきょう)、楞厳呪(りょうごんしゅう)、観音経(かんのんぎょう)等の節回しに特徴があったり長くて読み難いお経を毎晩教える様に命じられました。必ず何処かで確り聞いていて、真面目にやらないと思いっきり怒鳴られました。

 出来損ないの我々修行者達に、坊さんの命である読経だけでも一人前にして僧堂から寺に戻してやろうとの大慈悲心であったに違いないと思っています。

 その老大師も、六年前に九十二歳で遷化(せんげ・逝去)されましたが、「腹のどん底から声を出せ」「有難いお経を読め」と言われ続けたことは、今も私の心の中に生き続けています。御蔭様で、大きな声で読むことだけは出来ており、うるさかった老大師には今では大変感謝しています。

 山田無文老大師(やまだむもんろうたいし・花園大学元学長で大本山妙心寺元管長)が言われた言葉に「昨日読んだお経、今日読むお経、明日読むであろうお経が同じで良いのか」がございます。この言葉も「有難いお経」と共に私の心の中に今でも、生き続けている言葉です。音楽で言えばジャズは即興でありスイングが大事で全く同じ演奏は二度と出来ませんが、クラシックは同じ譜面で演奏するのですから、同じ楽団の編成ならば同じ演奏になるはずです。然しながら受け取る私達の問題もありますが、感動する時とそうでない時があります。同様に心にし沁みるお経とそうでないお経がある様にも感じます。自分では「昨日、今日、明日と漫然と読むお経であってはならない」と思っています。自戒しなければならないのは慢心でありな狎れです。読経といえども明日はないと心に言い聞かせ、そっこん即今ただいま只今に全てをかけねばならないと思うのです。

 老大師には「坊さんは願いを持たなければならない。」と言われてきました。読経するときに、衆生(しゅじょう)を済度(さいど・救う)するという請願(願い)が込められていなければならないと思っております。葬儀であれば、亡き人の極楽往生を願い、更には残された人々の安らぎを願って腹のどん底から声を出して読経するのです。ご法事であれば、その仏様と有縁の方々に思いを馳せて釈尊の教えを伝えるべく、ひたすら読むのです。

 例え己が如何に未熟であっても、一心に亡き方やそこに縁あって集う方々の思いを受けとめ、人々に心の安らぎと力強く生きる活力を与えるいしずえ礎となろうと願う気持ちを持って読経することだと考えて、昨日よりも今日、今日よりも明日と「腹のどん底」から声を出しております。

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