仏教って新しい

          大統寺住職 渡邊宗徹

 仏教って「古臭いもの」の様に感じていませんか。確かに、仏教を広められたお釈迦様はイエスキリストよりも六百年程も前の方ですが。

 日本に仏教が伝来した七世紀頃、人々は木の板やわらで作った粗末な家に住んでいたでしょう。支配者層でも茅葺の住まいがせいぜいの時代に、瓦葺で目の覚める様な朱に塗られた柱、金色に輝く巨大な仏像を祀った寺院は人々に驚きと感動を与え、極楽浄土を想像させずにはいられなかったことでしょう。

 現在の多くの寺院は、時代を経て伝統の重みを有した外観となり、あまり明るいとは言いがたいですね。

 でも、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像のアルカイックスマイルと呼ばれる微笑は今でも人々に慈悲の心を灯し続けています。鎌倉室町時代の文化は禅宗の僧侶により中国からもたらされ日本独自に昇華されて来ました。日本の文化を代表する茶の湯が確立されたのもこの頃です。常に仏教は芸術や文化の先進たる荷い手であったと同時に少しずつ形を変えながらいつの時代にも引き継がれ定着して生き続けて来たと思います。

 さらに、お釈迦様の教えは二千年以上たった今でも古びることは無く、むしろ宗教対立が世界の紛争の原因と言われている現在、この解決の糸口として見直されています。

 お釈迦様の教えは簡潔明瞭です。全ての生きとし生けるものが救われていると説きます。人も動物も植物も等しく救われます。悩み苦しみから抜け出して、主体的に力強く生きる道を相手に応じて説かれたのです。仏教は救われる対象を限定しないし地位や名誉により区別も差別もしない、仏教を信じない人も、どんな動物も生物も等しく救われていると説きます。

 歩くときも杖をつき音をたてて小さな生き物たちを踏まないようにし、こだわりを捨てなさいと説き、最後には自分自身への執着をも捨てなさいと言うのです。

 生かされている自分に気付き平和を求め争いを憎むこころは大なるものがあります。

 いくら仏教が素晴らしい教えであっても、それを正しく伝えることがなければ絵に描いた餅で何にもなりません。

 「来るものは拒まず去るものは追わずと言い、入口が解らないでいる一般の人々に手を差し伸べてこなかった我々の教化活動の怠慢がオウムや振興宗教を跋扈させて来た」と叱責されております。

 伝統に安住して人々の心の灯火となる伝統を醸成して来なかった仏教者の怠慢が、時代を超えて常に新しく輝いている仏教を生かすことが出来ないでいるのだと思います。

 質素を旨としてきた証である黒の衣を着て病院に見舞いに行っても「おっさんまだ早いよ。」と言われて石を投げられない様になる、寧ろ病人から黒の衣のままで来て話を聞いて欲しいと言われる存在になりたい。 そのための王道は無いでしょう。自らを常に見つめる自己を確立し不断の努力をすることしか他に無いと思っております。

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